昭和49年10月18日 朝の御理解



  御理解 第17節
 「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」

 2・3日前でしたか。福岡の高橋さんがお届けをされました。何時も自分の信心の焦点というか。そう云う物をまあ求めて続けて、まっおられる訳ですけれども。どうもピタッとした自分の信心というか。自分の信心の個性というか、そう云う物がハッキリ打ち出されない。一心というより、御用というよりもう、それはまあ合楽ずうと言うても過言では無かろうと思うんです。もう十何年ですか、福岡から朝の御祈念にお参りし続けておられるというだけでも大した事です。
 皆さんも御承知の様に、御用と言いや、高橋さんがおられない事はないと云う程しの、教会を中心にした御用が一心に出けておられる。本当おかげを頂いて、まあ商売の上にも大変拡張される。支店を十幾つも持たれる程しのおかげを頂いて来られた。最近色々な物価高とか、まあ何かの関係で商売の方にちょっと不振が、状態が続いたり。こう致しますと、どうした事であろうかと。自分の信心はもう一段と、どうにかしなければという、信心の焦点を願っての求めての、いわばお取次ぎを頂かれた。
 そしたら神様から私が頂く事がね。あの福岡の秋永友良先生です。秋永と佐田との間中に、中にある高橋の信心は。どっち付かずだとね、まあある意味合いで秋永先生なんかの様に、まあ割り切ったというか。その例えばどういう心配、悩み大きな事があってん、はあーおかげになるが。この一点でもう打ち払うて行かれるですね、秋永先生はそれが言えれる人でよね。これはまあ秋永先生の独壇場と言うてもいいが。
 どんな場合であってもおかげじゃろち。まあこういう風に言い方が出来れる方ですよね。又おかげにして行かれるです。もう佐田さんの信心は、これはもう言うならば正常の信心と言うでしょうかね。まあ三味線の調子で言うなら、秋永先生の信心は、まあ三下がり的な信心であるならば。佐田さん辺りの信心は、もう愈々本調子です。どういう点から言うても、言うならば合楽で信心の一家を成しておるという訳です。
 秋永先生なんかでも、それとは又趣きは違いますけれども、なら秋永先生の信心という一家を成しておる。高橋さん、貴方の信心はどっち付かずの所じゃんの。例えば言うならば、佐田さん所のあの倉庫の火事では、あの家事で丸焼けになった時なんか。私はあの伊万里におりました裏に。したらそのまあこうお届けに見えられましてから、やっぱ何か嬉しゅうして、嬉しゅうして応えん様にしてから、もう今日は先生おかげを頂きましたっち言うてから言いましたから。
どういうおかげを頂かれたかと思うたら、倉庫が丸焼けになりましたち言うんですからね。もうそれはその、私その時の佐田さんの気持ちは分かりません。けれどもです、まあ言うならば神様が、こうしてまあ言うならば力を付けて下さるというか、試して下さるというのが、何か可笑しい様な感じがする。まあ次々とお見舞いに見えるとに、あんまり奥さんが笑われる。もうおかげ頂いて来ておる、次には笑われるもんですから、婆しゃまが言わっしゃった。
 もう恵美子さん貴方、そげん笑うとば止めなさいち。こげな貴方言うならば、普通で言うならば不幸です。知らん者なねそれこそ、あの火事で丸焼けになってから、どっか頭がポーッとならっしゃったごたる風に思われたらいかんけんで、笑うとだけはもういかんばのと言う位であったと。もう嬉しゅうして、嬉しゅうしてと言うと、言葉がちった違うかも知れんけれども、それに良く似た嬉しさです。
 もうそこで即もうおかげと、そこでもうおかげと受けてあるです。皆さんも御承知のように、その火事からこっちの、佐田さん所のおかげというものは、それこそ目の見張る様なおかげです。あの難即おかげという、その所へもうハッキリ把握してある訳です。もう一歩だって後ろに引き下がっちゃない訳です。ゆるゆるもしちゃなかです。これはしかも一家中がそうであったという事が素晴らしいです。
 私は本当にこの、日頃信心の稽古をさせて頂いて、何を稽古するかと。昨日は合楽会で御座いましたから、もう丁度12時まで大祭のまだその感激が皆さんに残っておる。もう一人ひとりが、昨日は丁度15名でした。最近こうしてお参りをしておられなかった方も、この昨日の一昨日の大祭におかげを頂いて。そして昨日の会合に参加しておられました。そん中でも私はお話をした事ですけれども。
 合楽が25年になるが、25年の間に信者の家で火事が焼けたというのは、今年のたった二月あまりの間に、しかも久留米地区だけに三件焼けたと云う事です。もう是も、どうも不思議で不思議でたまらんですね。久留米支部の関係の方達ばっかり。古賀さんの方が丸焼けになりました。佐田さんの倉庫が丸焼けました。後藤さんのお宅が、これも、まあ完全な丸焼けであった。所がどの一点を見てもです。その火事の後からのおかげと云う物が目覚しいのです。
 まあそれを本当にあの、おかげっちゃこんなもんだろうかと思うのですけれども、その時点での受けかたが、古賀さんにしたところで、後藤さんに知らせておった。まあ佐田さんの場合なんか、そんなもっともっとですね、赤抜けしたもう難即おかげとして受けてあったわけです。難はもう即ちおかげなんだ。もうそれこそ笑いが止まらん。それもどう云う事かと言うとですね、あれがしだごだな信心をしておるとですね、そう言う心は生まれて来んです。いわゆる本調子の信心をしよらなければです。
 そういう心生まれて来んです。言うなら是程しの信心という訳でもないけれども、まっ佐田一家としてはいっぱしのおかげを、信心させて頂いておって起きて来る事であるから、神様の御働きに間違いはない、おかげに間違いはないという事をすぐ感じられる信心を頂いておられます。私はね、神の綱が切れたというが、神からは切らぬ、氏子から切るなと。秋永先生辺りの場合なんかは、それは何て言うですかね。
 佐田さん辺りの様な、言うなら信心は出けておらんけれども、その事をそのおかげにして行かれる事の、まあ名人の様な方ですね。どう云う事があっても、それをおかげにして行く手立てがうまいです。佐田さんの場合なんかは、もう即おかげです。おかげにして行くじゃなくてね。私はそれを頂いた時に、本当に高橋さん丁度本当、佐田さんと秋永先生の信心の真ん中に、どっち付かずの所にある。と言うて是は信心の性格と云う物は一人ひとり違うのですから。
 けれども矢張り、此処の又高橋さんの信心が一家を成すと云う様な信心の一つの基礎だけは出来てあるのであるから、ちょっと焦点が変えられて来るとおかげになる。昨日も私申しました。昨日もお店の上でちょっと不祥事があった。ですから次々と言うならばその、難儀に遭われるという難儀に遭うと言うか。言うならば困った事が続くという時にです。秋永先生ならおかげじゃがと、もうその場で言えれるのでしょうけれどもそう云う事が起きて来ると、額にシワが寄って来る。
 顔がクーッとした顔になって来る。昨日の朝でした。久富重雄さんがここでお届けなされますのに、親先生今日は御祈念中にもう何回も何回も、目を潰れば高橋さんのお顔を頂く。しかも額にシワを寄せてもうクーッとした顔をしておられるお知らを頂きますというお届けがあっとった。その後に高橋さんが見えられてからやっぱり、本当にそれと同じような状態のお届けをなさいました。だからそこの所のこの受けて行くと云う事がですね。言うならば高橋さんの事ですから神の綱を切るとか。
 信心を止めるとそう云う事はもう勿論サラサラありますますまいけれどもです。けれども例えばなら難儀即おかげと頂いて初めて、私は揺るがない綱だと思うです。神と氏子との繋がりと云う物が。そこに例えばクーッとしたり信心とは反対のです事をです、思うたり感じたりするならばもう神の綱を切れ、切ってはおらんけれども切ったと同じ様にですおかげが交流しないです、悔む心におかげはなしと仰る。
 そういう時に私は本当にあの、ああ心配するなと、おかげじゃがと。お取次ぎを頂いて起きて来る事だから心配いらんぞと。是がその高橋さんの場合なんかは、その奥さんがと二人の信心で他の方達が信心がありませんからね。なら佐田さんお宅の様に、一家中上げての信心ならばそれが中々、あのおかげだと云う事がすぐ響き渡るのですけれどもね。それこそ高橋さん所当たりでは、ならまあ従業員の方達でもです。
 何時も大将がねあげん一生懸命信心するがと言うから、困った事ばっかり次々と起こるという風に思うておるとを、それがおかげじゃなと言うても響かん通じない訳なんです。だからほんならあの例えばです。こういう中にあっても内まででもそれこそビクともせんと額にしわをよせんと、所謂悔やみの顔なんかはサラサラしないと云う様なです、だけの信心の腹と言うか、度胸と云う物が出来なければいけませんね。それにはどういう信心したら良いかと云う所に、今高橋さんは焦点を置いておられれる訳です。ね。
 もう難即おかげという時に、もう難はないのです。あるものは神愛だけだ。ですからもうその後から、神愛の働きである証拠のおかげがです。例えばなら久留米で三人の御信者さん方が丸焼けになられたその後の信心のおかげの、まっ言うならば素晴らしいおかげになっておると云う事から言うてもです。だからそん時に例えば悔むと云う事は、もう緩めると云う事ですから。悔やむ心にはおかげはなし。所謂おかげの信心を見とらんばってんおかげの方が、もうそこで切断されとる切れとる。
 是も昨日の合楽会で発表しておられました。その久保山さん。御神縁を頂いて、それからまた御信心になって体が悪い。リュウマチで足が足に水が溜まる。月に3回も4回も水を取らんならん。もうそれの痛さ苦しさというたらもう、それはもうどんこんされんごと苦しいと。その上に胃腸が非常に悪い。ずうっと薬を飲み続ける。お医者さんには掛かり続ける。その上血圧が高くて、もう何時も血圧の事が心配で心配でたまらんと云う所から、またキッカケを頂いて一生懸命お参りをして来る様になった。
 昨日はその時分の事をずっとお話になりました。もう親先生げんあるごとなら、もう私は自殺しようごたるち。まあ自殺するとは止めんのち言うて、親先生がそん時言わっしゃったがです。それからおかげを頂いて、お参りをさせて頂く様になって医者を止めた、薬を止めた時点からおかげを頂いて。今ではあのさしもの言うならば胃腸も、もう本当におかげを頂いた。もう第一血圧の事はもう考えもせん様になった。
 ただリュウマチのその水が溜まる方の事だけはです、中で是は正直な話が三回ぐらいは、こげな風ならま一辺医者に行かんでん良かろうかちゅう事が三回ぐらいはありましたち。そういう時に此処ん所が頑張らなん所じゃろうと思うてからです。持っとる色々な薬を全部捨ててしもうた。もうそういうおかげを頂いてです。ある時お参りをさせて頂いて、ここであのお届けをしようと思うて座った途端にです。あのもう嘘の様に座られた。まあそん時の有り難い事。
 本当に神様のお働きっちゃ、もう恐れ入ってしまうという話を、昨日なさいました。はあおかげを頂いた、おかげを頂いたと言いよるばってんです。口には言いよるけれども、心でははあ是はま一辺医者に行かにゃいけんじゃ無かろうか、水取って貰わにゃいけんじゃ無いだろうかと云う事もあったけれども。もうそれこそなら一心発起して、ならもう薬と愈々縁を切るという、薬を捨ててしもうた。
 そういう言うなら所からです、おかげを頂いて、もう愈々おかげ頂いたという、おかげ話が出けると言うて、昨日話しておられます。信心のおかげと云う物はです、ただ自分の都合の良い事だけがおかげではない。一段とおかげを下さろうとする前には、必ず言うなら試験がある。信心に身が入って来ると、お試しがありますぞと教祖様は、もう晩年の頃はこの事ばかりを仰せられたと云う事ですけれども。
 そのお試しを受けておるとにです。それを言うならば即おかげとして受け切らんならば、試験に落第したも同じ事でしょうね。だからそういう時に、言うなら見事にパス出けれるだけの信心を頂いておかなければいけないと云う事。昨日は以前に参って来よりなさったけれども、久し振りに参って来た合楽の方でしたけれども。まあ御大祭と言うか、とにかく何か忙しかったけれども、御大祭にお参りをさせて頂いた。
 もうとにかく有り難いそして用件があるから、久留米にの用件も大事な用件だから、帰っすぐ行かじゃこてと思うてから、もうお説教を頂いてすぐもうお弁当も頂いたなりで、その走って行こうと思って行った。所がそこへ出た途端に知った方が自動車に乗せて行って下さった。もうおかげ頂いたその時じゃありません、あの道を間違えちから自分の行く所を行かんな、私が行く所の方へ道を間違えて行ってた。
 ああ是は道間違えたそのアンタ方への道は間違え、私がたここに来るだったち言うちから、言うたてそげなおかげを頂いたという話をしておりました。それは信心させて頂きゃです、本当に素晴らしいそういうタイミングが生まれて来る事は、もう事実ですね。けれれども、その素晴らしいタイミングそういう意味でのタイミングだけでは無くてです。例えばなら大祭の当日そのいろんな調べか何かに、あの本当の方にたかしん所の言うなら自分達のいない時に見えて、それが大変分の悪い様な事になっておった。
 次々とまあ困った事ばかり起こっとる、しかも大祭の当日にそう云う事が起こった。そういう時にですもう私がね、これは17日の四神様の月次祭の日でしたけれども、言わばもうそれこそ、まあ普通で言うなら振るい出すごたる問題が起こったんです、昔所が17日の月次祭の日でしたから、もういやあおかげと思うたですね。その時分四神様の、善導寺では四神様のお月次祭は17日でした。
 だから四神様の、あの修行の強い金光様ですからの日に来たと云う事は、もう是はある色んな処理なんかも、大体そういうのを処分しなきゃいけないのをです、もうお母様のお三宝の上にお供えしたまま、その事は放任にして月次祭のおかげを頂いたんです。それがね、四神様のお月次祭だからね、よし日に起きておるからです。もうそれをおかげと思わにゃおられなかった訳です。
 神様がそれこそ、もう本当に修行させて下さるなと。もうどかっと腹が座ってますからね。もう難即おかげ。そういう素晴らしいタイミングです。悪い事普通で言うなら困った事で、それこそドタバタするごたる問題です。けれども17日の月次祭の日にそれが、その通知が来たという事は、もう私はおかげと、こう思った。だから信心させて頂きよると、必ずそう云う様な後先があるです。
 大祭でお参りしておる間に起きておる事だから、もうおかげとです。もう大祭に参る時に、神様も神様こげな事になってからと云う様な頂き方ではなくて、大祭にお参りして起こっとる事だから、おかげに違いはないという事です。家内と二人で大祓いのそのお参りさせて頂いて、帰らせて頂いたらもう色々もう、わずかばかりしかない商品がみんな取られとった。もうそん時の有り難さね。
 大祓いの時に取られると云う事は、もう愈々お取り祓い下さったとこう。そんな素晴らしい意味合いにおいてです、他人が具が生まれて来るですね。昨日その大祭の終わった後に久留米行きのその方の話は、素晴らしい夢にも見るタイミングね。けれどもなら、今高橋さんの場合やら、今私の話やらはです。是は普通から言うならば困った事なんだけれども、そういう例えば御大祭にお参りしておる後に起きた事であるとか。
 17日の四神様のお祭りの日に起こった事であるから、そればもう即おかげと頂けれる心の状態というものがね、頂ける為にはどういう信心を日頃しておかなければならんか。おかげを頂く事だけが信心だと云う様な信心からは生まれて来んですね。昨夕べもう12時に終わりました、合楽会が。それから、昨日は夕食を頂けてませんでしたから、重雄さんと二人で、家内が部屋の方で夕食を準備しておったから頂いた。
 そしてそのテレビをひょっと付けたら、何かヤクザ者のね、その映画があってた。もう素晴らしい映画でした。もうあの配役がもうとても素晴らしい配役でした。その親分の言う事が気に入ったんです。それはね侠客の道と云う者はね、喧嘩やバクチを、が強うなるという道じゃないてね。侠客の道というのはです、どういう例えば弱い者の見方になって、何時も男を磨く事が侠客道だぞと言うて、その子分に言う所であった。
 まあ、私は此処ん所を、もう取り違えたら信心は駄目ですね。侠客と言やあ成程喧嘩の時に喧嘩もするし、バクチも打つけれども。なら喧嘩バクチが強いのが良か遊び手じゃないちゅう事。侠客の道と言うのはです、男を磨くその事によって男を磨く。弱い者の見方になって、男を磨くと云う所にいたから、何時でも命を捨てる覚悟をしとかなければでけん。それが侠客の道じゃと言うておられます。
 信心もそうです。おかげを頂くとか、素晴らしい良いタイミングだけが生まれて来る事がね、信心じゃない。信心はその事によってです、なら磨いて行くと云う事が信心なんです。男を磨くではなくて、言うならばその事によって。心を磨くと云う事が信心なんですよ皆さん。だからそこを間違えますとね、そのそん時いやあ神様これでね、また一つ力を下さるばい。いやあこれで神様がまた磨かせて下さるばい。しかもそれを信じなければおられない、素晴らしい四神様のお月次祭の日であると。
 大祭の日に起こったとか。これはおかげに違いはないと、もうその場で即です、おかげと頂けれる信心を頂かなければつまらん。それにはね、本当に信心とは本心の玉を磨くものぞやと仰る様に。信心とはおかげを頂くというのではない。信心とは素晴らしいタイミングが生まれて来る事の為に信心があるのじゃない。そういうおかげは、その次のものであって。どういう問題からでも、本心の玉を磨くと云う事が信心であり、そういう時にね、喧嘩バクチが強うなると云う事が侠客の値打ちではなくて。
 その事に男を磨くと云う事が、侠客の値打ちだという、本当にそこを間違えたら、もう本当のヤクザです。人から爪弾きされるです。清水の次郎長とかマムシの長平衛とかという、なら侠客の人は、もうその何かの時に何時も男を磨くと云う事に焦点が置かれたから、今にも名が残る程氏の事になっておる様にですね。弱い者いじめ。喧嘩はするバクチは打つ。もうそれこそその爪弾きです。
 信心もですただおかげを追求するというのは、値打ちはない。それは信心がです、人からどうもね、御利益信心と云う様な事がです。言わば軽視されたりね。信心する者ばかりがと言う様な、その言葉を聞くのもです、そういう信心から出て来る事です。その事を持ってです、私は男を磨いて行く。その事を持って、心を磨いて行くという信心こそです。真の信心という事になるのです。
 ですからそういう時に、なら自分の都合の良い事だけをおかげ、おかげとこう言うておる様な時に、それが反対の事になって、もう悔やまねばならなかったり、どうしてこう云う事が起きて来るじゃろうかと言うたらです、もう神の綱は切っとらんにしても、緩んでおるです。緩んでおったらもう神様とね、悔む心におかげはなしです。だから常日頃です、その時即おかげとこう、例えば頂けれる信心を身に付けて行きたいですね。
   どうぞ。